logo

「ルビは行動するハードルを下げる優しさ」生態学者・瀬戸昌宣まさのりさんが語るルビの必要性

インタビュー

2024/08/02

ルビは人を新しい世界に誘う可能性であり、それをいかに環境に散りばめられるかが重要ーーそう語るのは、生態学者でありNPO法人SOMA設立者/代表理事でもある瀬戸昌宣まさのりさんです。NPO法人の活動の一環として、人々に自由な環境を提供する瀬戸さんが、普段意識していることは、まさに「ルビを振ること」と同じだと、ルビ財団の活動に共感いただきました。
ロフィール
瀬戸昌宣まさのり Masanori Seto Ph.D.
瀬戸昌宣まさのり Masanori Seto Ph.D. NPO法人SOMA 代表理事。農学博士(農業昆虫学)。 米国コーネル大学にて博士号を取得、同大学で研究と教育に従事。 2017年に「ひとが育つ環境をととのえる」をミッションに学びの環境づくりや自然環境の再生にエコロジカルなアプローチで取り組むNPO法人SOMAを設立。「生きる、あそぶ、まなぶを自由に」をモットーに福岡県を拠点に活動。

生態学者として自然を観察する中で、人間が自然を理解するためのルビが存在している、と言います。今回のインタビューでは、教育そして生態学という二つの側面から、瀬戸さんが考えるルビの重要性について語っていただきました。

ルビは人を新しい世界に誘う可能性。いかに環境に散りばめられるかが重要

瀬戸さん

瀬戸さんは、子どもたちが自分たちで居場所を作り出せるようになるような教育プログラムなどを行なってきました。例えば、不登校で学校に馴染めない子ども自分ペースで他者や環境と響き合いながら少しずつ自分の居場所を見つけていきます。ルビ財団の活動を聞いた瀬戸さんは、ご自身が持っているルビのイメージそのままであったことと、そして教育において「環境」働き重視している瀬戸さんにとってルビは学ぶ環境を形作る重要なファクターだと感じ、共感したと言います。

瀬戸さん:私がやっているSOMAというNPOのミッションは、「人が育つ環境を整える」です。昨今、教育事業というと、具体的な教育プログラムのこととか、いかに効果的に学べるかとか、費用対効果の話がとても多いように思います。けれど、学校など教育現場で苦しんでいる子どもたちは、学習のテクニックとか、効率の良さとかではあまり悩んでいません。彼らは「なぜ学ぶのか?」というそもそもの問いに一度も触れたことがないのではないかと思います。それは形式的な模範解答ではなく、彼らの生きる人生に関わるものでなければいけません。もしかすると彼らは「学ぶ」ことをやっている大人と触れた経験がないのかもしれませんが、いずれにしろの「導入部分」がありません。7歳になる歳に突然ランドセルを背負わされ学校に放り込まれて、「では学んでください」と言われるため、学び方のお手本がなく、悩んでしまうんです。

ルビは読めないものを読めるようにするものであり、ひいては、学習の入り口を作るものだと思っているとのこと。つまり、これから何かを学習する人たちにとって、自分の知らない世界へ導いてくれる人こそが、広い意味でいう「ルビを振ってくれる」人だと感じているそうです。

瀬戸さん:例えば、私が自分の専門分野である虫のことを語り出したら、数時間ではすみません(笑)。私の言葉によって、虫に興味がなかった子どもを、虫の世界に導くことができるかもしれません。私が虫について話すことで、その子と私の間に一種の文脈が出来上がる。そして、その子が昆虫学の世界に誘われる可能性が生まれます。この場合、その子にとってのルビは、私の言葉だと思うんです。

「人が育つ環境を整える」というSOMAのミッションを具体的に実行する方法の一つは、人を新しい世界に誘う仕掛け、例えばさまざまな形のルビを、いかに環境に散りばめられるかと言えると思います。人をあるゴール(もしくはスタートライン)に導くためにどうすればいいのか、その仕組みのようなものがルビという言葉から感じられ、私たちが生きる環境には、ルビが文字とは限らない形でたくさん埋め込まれているのではないかと、瀬戸さんは語ります。ルビ財団としても、文字に読み仮名を振るという意味のルビだけでなく、人をあるゴールに導く仕組み自体が「ルビ」になるのではないか。ルビの可能性の広さを感じます。

より具体的な説明として、瀬戸さんは現在の小学校教育を例に上げてくれました。日本の小学校には学習指導要領というガイドラインがあり、その中で「1年生ではこの漢字を学びましょう」と、学年ごとに学んで良い漢字が決められています。しかし瀬戸さんは、漢字を学ぶタイミングは決めず、どの漢字を何年生で学んでもよいと考えているとのこと。仮に小学1年生の子が、小学6年生のときに学ぶ漢字に出会ったとしても、ルビが振ってあれば、読むことができ、調べることもできる。このように考えると、ルビは学習の補助をしてくれる仕組みとして、非常に有用であるという意見です。

瀬戸さん:私の息子は本が大好きで大量に読むので、学校ではまだ習っていない漢字にも出会っています。ですが、その漢字を学校で書くと、先生から「この漢字はまだ習ってないから書いてはいけないよ」と言われてしまうんです。実際に、自分自身の名前の漢字も書けるにも関わらず「まだ学校で習っていないから」と宿題の名前の欄をかき分けていたのには驚きました。習っていないからといって、知っている漢字を書いてはいけないなんて、なんだかとても無駄なエネルギーを使わされているように思います。仮に同じ学年の子が息子の書いた漢字を読むことになっても、ルビを振っておけば問題なく読めるはず。教育の文脈で見ると、ルビは知らない漢字への扉を開ける鍵なのではないかと感じます。

しかし、世の中にはルビを振ることに否定的な人もいるのも事実。「ルビがあったら子どもたちは漢字を覚えなくなってしまう」「日本の学力低下につながる」などの意見に対し、どのようにすれば解決できるか、ルビ財団も日々向き合っています。

しかし、瀬戸さんの言う「空間上にもルビ、つまり補助線のようなものがあり、その補助線を踏まえたルールを、その場にいる人たちが自動生成しながら、振る舞いを学んだり、試行錯誤できるようになったりする」という考えは、ルビに対する否定的な意見に対する一つの答えになるのではないでしょうか。改めて瀬戸さんに意見を聞いてみました。

瀬戸さん:例えば、自分がある部屋の中にいて、椅子に座っているとします。その側に誰も座っていない椅子がある。このような状況で誰か人が部屋に入って来たとき、誰も座っていない椅子をその人の方に寄せてあげたら「この椅子に座っていいよ、誰も使っていないよ」という意思を表示したことになりますよね。でもその動作がなければ、やって来た人はすぐには座っていいのかわからない。「ルビを振らなくてもいいだろう」と意見するのは、この例えの場合「空いてる椅子があるんだから、わざわざ寄せてあげなくても座ればいいじゃないか」と言っているのと同じだと思うんです。なぜ行動することのハードルを上げるのか。高いハードルを超えるからといってより良い人間が育つわけではありません。優しさや気配りに欠けるし、能力主義的だなと思います。

教育の観点でもルビは重要です。特に、人口の8%ほどがディスレクシア(文字の読み書きに限定して困難を感じる学習障害)とされていて、ディスレクシアの子たちが国語の勉強をするとき、ルビのような補助線の存在は非常に重要だということで、瀬戸さんとルビ財団の意見は一致しました。

言葉は意味ではなく音を先に知るので、音を表すルビが必要

インタビュー中の瀬戸さん(右)と伊藤(左)

日本語は特に、言葉の意味を重視することが多いと感じる瀬戸さん。しかし本当に重視するべきなのは「音」であるとのこと。私たちが新しい言葉を知るとき、基本的には意味ではなく音を知るのが先だと語ります。

瀬戸さん:難しい漢字の意味を理解できなくてもルビが振ってあって、音として発語できれば、いつの間にかその言葉の意味や文脈が理解できるようになると思います。自身の言語習得や他者への教育を含めて私が音読の学習効果を実感しているからでもありますが、言葉をインプットするのは、まず音で行うんです。言語は音が先にあり、文字が意味とともにあと追いします。だから私は、まずは音として発語できるように、本などにルビをもっとたくさん振るべきだと考えています。

日常生活でも「音」によるコミュニケーションを重視するそう。特に瀬戸さんが長らく生活してきたアメリカでは、テキストメッセージやメールよりもまずは電話ということが多く、音を使ったコミュニケーション手段が好まれていると感じていました。同じ言葉でも相手の肉声で届けられると印象が違います。日本では、テキストベースのコミュニケーションが好まれ、どんな言葉でも画一的なフォントで手元に届きます。相手が喜んでいるのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、冗談を言っているのか、深読みして返信が滞ってしまうこともしばしばあります。

瀬戸さん:私の母がよくラジオを聴く人だったこともあり、家ではいつも言葉が音楽のように流れていました。私もアメリカにいる時はラジオ、ポッドキャスト、オーディオブックをよく聞いていました。そこから得る情報が知らない世界の入り口になっていました。日本に帰ってきてから、改めてラジオの情報量の少なさに驚きました。悪いわけではないですがテレビのバラエティ番組のようなラジオばかりで、情報伝えるというよりも「なんか楽しかった1時間」を提供しているだけの印象を受けます。これは普段の生活から言葉の音による情報のやり取りが少ないためではと思いました。国会中継や地方の議会などを傍聴していても、小学校の学級会のようなに見えてしまうのも、音としての言葉を使う文化が未成熟なのかと思います。このような状況だから、一緒に出かけている隣にいる友達とのコミュニケーションをスマホ越しにテキストでするようなことが起きてしまうのかもしれません。

瀬戸さんは、アメリカのPodcastやラジオは非常に重厚に作られていて、情報のリサーチもしっかり行われており、シナリオもしっかり練り込まれているものが多いと語ります。しかし日本には、アメリカほど緻密に作られたラジオ番組がなく、その要因として、日本が言葉の意味ばかりを重視するようになってしまったが故に、人々の音に対する感受性が落ちたからではないかと推測しているそうです。

瀬戸さん:もし私の推測が当たっているならば、これから成長する子どもたちにはなるべく「音」を重視してほしいなと思います。実際に私は、自分の子どもたちから「この言葉、なんて意味?」と聞かれたとき、「音(読み方)は分かるでしょ?なら大丈夫だよ。いつの間にか意味も分かるようになるから」と言うこともあります。そこで私が意味を伝えること自体が子供達にとってミスリーディングになってしまうかもしれませんし、音がやがて子どもたちを意味に導いてくれるので、何回もその音と出会った方がその場で私の知っている意味を教えるより効果的だと思うんです。その出会いを作るという意味で言えば、文章はひらがなで全て書くか、漢字にルビを振るという試みが、本という媒体において必要なことだと思います。

ルビ財団としても、言葉の意味ではなく「音」を重視するという瀬戸さんの意見は、ルビを増やすことに対して非常に重要な観点ではないかと考えています。

人間は知ってることだけを選択的に見てしまい、後から全体像を理解できないことに気付く

瀬戸さん(左)と伊藤(右)

自然界を調査していると、生き物の痕跡が補助線、文章でいうルビのように残されているそうです。瀬戸さんの専門分野である生態学の観点からも、ルビの重要性や意義などを語っていただきました。

瀬戸さん:たくさんの生き物が、調査に役立ついろんな手がかり、つまり調査の補助線となるルビを残してくれていると思うんです。自然は人間が作る環境と違って、あまりにもたくさんの生き物が関わっているので、ある生き物が痕跡を残しては、別の生き物が関わってその痕跡が消え、ということが繰り返されていきます。つまり、ルビの生成と消滅が繰り返されていると思うのです。そのため、自然の中では、ルビの存在に気付くまでに時間がかかってしまいがちです。

例えば木を観察しようとしたとき、自分の知っている部分や説明できる部分だけを見て、全体を把握しようとしてしまうことがあると言う瀬戸さん。同じことが、文章を読むときにも起きているとのこと。

瀬戸さん:私たち人間は、知ってることや説明しやすいことだけを選択的に見ようとしてしまうんですよね。自然を観察するときだけでなく、文章を読むときも同じです。「この漢字は読めないから飛ばそう」という感覚で、文章を読み進めてしまいます。でも後になって、実は読み飛ばした漢字が文章を理解することにおいて、とても重要な部分だったと気付くことがよくあります。もし読み飛ばしてはいけなかった漢字にルビが振られていれば、その場所に戻る手がかりが増え、文章をより正確に読むことができたはず。

自然を観察するときも、同じような思いになるときがあります。自然は、正確に観察するために必要な手がかりや補助線、つまりルビを残してくれているんです。しかし、私にはそれが見えてなかったり、見えていたはずなのに読み切れていなかったりする。すると、全体像の把握が難しくなってしまいます。

ルビを振ることを「自分の知識と読者の知識とを橋渡しをすること」とするならば、自然界はルビに溢れている世界なのではないかと考える瀬戸さん。

瀬戸さん:「環境DNA」という考え方がありまして、これも自然を理解するときに使われるルビの一つだと思います。コロナウイルスの検査に使っているPCRと同じような技術により、特定の生き物の遺伝子を増幅させ、そこに超微量の痕跡が残っていれば、その生き物がいたと知ることができます。この痕跡こそが環境DNAです。

例えば2023年にサケが川に戻ってこなくてヒグマが痩せ細っているというニュースがありました。本来、川にサケが戻ってきたかは、ずっと川を観察していないと分かりません。しかし、川の水を上流から下流までいろんなポイントで採取して、その水をPCRにかけてみると、サケが戻ってきた痕跡が残っているんです。だから、川をずっと観察していなくても、サケが川に戻り始めていて、川のどの辺りまで来ているかが分かります。

生き物がそこまではっきり痕跡を残しているということになると、彼らにとって自然界での営みは、ルビを振るまでもなく連続性を持って行われていることなんだと思います。ただ、ルビを振ることを「自分の知識と読者の知識とを橋渡しをすること」とするならば、自然界にとってルビという概念は本来必要ないけれども、人間が自然界を観察する場合、実はルビに溢れている世界なのではないかと思うんです。

「ルビを振ることは、自分の知識と読者の知識とを橋渡しをすること」。この考え方は、ルビ財団にも共通する考え方です。自然界にとっては不要なルビでも、自然界の外で生きている人間が自然界のことを理解するためにはルビが必要になります。言い換えれば、漢字をたくさん知っていて、日常的に触れることが多い大人にとってはルビは不要かもしれないけれど、まだ漢字を学んでいない子どもが文章を理解するには、ルビが必要ということでしょう。瀬戸さんが幼かった頃も同じような経験があったそうです。

瀬戸さん:小学生の頃、旧字体で書かれた文字の多い岩波文庫に憧れて、読んでみようと思ったことがありました。けれど、やはり読めなくて挫折してしまうんですよね。もし読めない漢字にルビが振られていたら、あるいは全てひらがなで書かれていたら「音」の世界に入れて、演奏を聴くかのように文章と戯れられただろうなと、今でも思います。だから、「昔の本にルビを振っていく」という伊藤さんの話を聞いたとき、とても素敵だなと思いました。当時挫折した明治時代の本にもルビを振ってもらえると嬉しいです。